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スキー&スノーボード2004-2005

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当たり前

 「当たり前」

 小学校5年の時に坂下君に「そんなの当たり前だ」と言われたのが印象的だった。

当時
 当時坂下君に何を尋ねたかは、覚えていないが何か質問を投げかけた結果だった。疑問の答えが「当たり前」という回答はまったくの期待はずれで、疑問を持つことが間違いのように言われたことになる。当時の僕は、当たり前について疑問に思い始めた。

当たり前
 算数や理科とかもよく考えると有識者から見れば「当たり前」のことだと思う。どこからが、当たり前でどことらが当たり前でないことなのだろうか。僕がだした結論としては、自明すぎて答えることができない、或いはそれについて自明すぎて考えることがないからだと思う。

考えない
 物事の多くを当たり前だとして考えることをしない。ある意味素直に物事を受け止めているようすで、それ以上考えることをしない。例えば、昔の高校等の校則などがあげられると思う。意味の良くわからない校則などがあり、それを当たり前に思って生活をしていた。疑問ししても校則だから守るのが当たり前と言われてしまう。

本当は理由がある
 当たり前と言われることで、すべて理由があるのだ。それについて誰も説明しようとしないか、あまりにも説明されている場がないので諦められているか、誰も興味を持たない。一度決まったことには、しばらくすると興味がなくなるのだろう。

理由を求める理由
 当たり前を他人に強制あるいは要請するときに、納得して行ってもらうために必要になる。納得しないままでは、たいていの場合効率が悪くなることが多い。「そういうの先に言ってよね」ってことがよくあるだろう。また、理由を聞いて実行に移すときには、より細かな作業を行ってもらえる可能性が高い。


 納得して行動することは、気持ちよく行動できることだと思う。


以上
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by ma2mura | 2005-01-14 01:38 | 考えたこと

LP-Z2(液晶プロジェクター)

 「LP-Z2(液晶プロジェクター)」

 去年の初めに液晶プロジェクター(SANYOのLP-Z2)を買った。周りの人に液晶プロジェクターを買ったと言ったら、液晶プロジェクターというもの自体を知らなかった。

液晶プロジェクター
 液晶プロジェクター(e-wordの辞書)とは映画のスクリーンに投影するための映写機のようなもので、フィルムの代わりに液晶を使って投影する。もちろん映画同様に、部屋を暗くしなければ、よく見えないことになる。しかし、暗くして大きな壁と距離さえあればかなりの大画面で画像を見ることができる。

最近のプロジェクターの利点
・うるさい
 プロジェクター自体は、昔からあった。最近になってホームユースのものが商品化されるようになった。元々プロジェクターは画像を投影するために強力なランプを必要としており、それを冷却するためにファンが回ってしまう。これが騒音となり、映画を見るとき等うるさかった。

・拡大レンズ
 最近のプロジェクターは、6畳で100インチの画面を投影可能なのだ。プロジェクターとスクリーンの間の距離で大きさが決まるのだが、拡大レンズにより距離が短距離でも大きなスクリーンで見ることができるようになってきている。日本の部屋事情にマッチした形になってきている。

・画像が綺麗
 ハイビジョンぐらい出力できるような解像度の高さがあり、色数も豊富で明るい。友達に見せるとかなり驚く。

・価格
 僕が望んでいるプロジェクターは15万ぐらい。価格帯ではぎりぎりの選択。

ぼくんち
 とりあえず100インチオーバーで見ることができる。今100インチとかって出るわけじゃないのでよくわからないが、スクリーンの横幅が2.5mぐらいあるのでかなりでかい。この環境でPS2のゲームをやると、ゲームの中の人はほとんど等身大になってかなりの迫力がある。ただテレビを見ると、変なおばさんの顔が恐ろしくでかく映ったりするので微妙。

問題点
 耐久性に問題がある。長時間使用する時は、適当に途中で電源を切ったりする必要がある。他にも、ファンがあるのでレンズに埃がついてしまうと画質が悪くなったり、夏場だとかなりファンから熱が放出される。そしてランプの寿命が短いことも問題で、ランプが切れると交換なのだが、ランプは定価3万ぐらいする。


 プラズマテレビが良いのというが、僕はプラズマは逆に中途半端に思える。テレビを見るのにそんな大きな画面は必要ないと思っている。でかい画面でパソコンをするのもかなり面白い(周りが暗いので目は悪くなるかもしれない)。それでも、でかい画面はかなり堪能できるだろう。


以上
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by ma2mura | 2005-01-13 21:13 | パソコン

助けてあげること

 「助けてあげること」

 助けてあげるという行動は、どこまでがその人のためになるのだろうか。過保護との境界線はどこにあるのだろう。

助ける
 相手が助けを求めているから、あるいは困っているから助けてあげるという単純な行動をとるのは相手のためになるのだろうか。助けが必要なのは、たいてい自分が失敗しそうかあるいは失敗してしまったかのどちらかだと思う。助けのレベルもピンきりだと思う。

結果
 助けた結果、本来はもっと失敗していたのに助ける行為は、失敗することを免れてしまうことになる。成功よりも失敗から学ぶことが多いのに、助けることによって少ししか学ぶことができなくなってしまうことになるのではないだろうか。つまり成長の妨げになる可能性がある。助けるのは失敗してからが良いのかもしれない。

感謝の気持ち
 どれくらいどうしようもなく困っている人で、どれくらい助けてあげたとしても感謝の気持ちのない人がいる。そういう人はどうしようもなくなっても、きっと助けてくれる人がいると信じているためだからだと思う。そして、助けなかった時は逆恨みするが、助けてくれた時にはそれがあたかも当たり前のように思っているのだろう。

エスカレートする
 一見恩着せがましいと思うかもしれないが、助けてあげたら感謝されなくてはいけない。感謝のない助けは、習慣性を持ちそれが当たり前だと思いはじめてしまうからだ。当たり前になった助けは、相手を傲慢にさせより多くの助けを強要させられる。エスカレートしはじめ、耐え切れなくなった時関係は破綻する可能性が高い。相手は逆切れし、自分はそんな相手を嫌いになってしまう。この覚悟があれば、感謝されなくても問題はないが関係を維持したいのであれば、感謝されなくてはいけない。

対価は必要
 感謝の気持ちを形にしてもらう必要があるように思える。金銭とは言わないまでも、どのような形でもよいし、どれくら時間がかかっても感謝の気持ちを形に表す必要があり、表してもらう必要がある。それが人と人との関係につながると思う。片一方への依存はバランスが悪い。助けられた方は肩身の狭い思いをするかもしれないし、助けた方も気を使うことが多いだろう。


 手塚治虫のブラックジャックが、高額の手術料をとるのもこの辺に理由があるのかもしれない。


以上
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by ma2mura | 2005-01-12 21:59 | 考えたこと

人が見ている色

 「人が見ている色」

 僕が目で見ている世界は、フルカラーだと思っていた。池谷裕二の「進化しすぎた脳」という本に、実はそれは少し違うと書いてあった。

カラーで見えている範囲は少ない
 人の目はカラーを感じる神経と、光の強さを感じるつまり白黒で色を感じる神経の二つがあるようだ。そして、カラーを感じる神経は目線の中心から左右に5度ぐらいしかないようだ(網膜における視細胞の分布図で、conがカラーでrodが白黒)。その代わりに白黒を感じる神経が周りを囲っている。つまり、人の目は目線の周り左右5度がカラーで残りは白黒でしか見ることができないということになる。

色は脳がつけている
 この理論が正しいとしても、今現在も僕の目には世界はフルカラーに見える。誰が色をつけているのかということになるとやはり、脳が色をつけているらしい。視野左右5度のカラーを識別する神経を使って周りの色を脳が覚えて、白黒で見えている範囲を補完しているらしい。

補完能力
 色をつけるという行為は、ものを認識して、それに対して着色していると考えられる。この補完能力を使えば、もっと空間を認識することができるようになるのではないだろうか。ものを見ずに物を取る人がいるが、その人達はこの補完能力を拡張した人達なのかもしれない。また周りをよく見ない人が多いが、それはこの補完能力が低いためなのかもしれない。


 想像力が人の視野を広くしている。


参考資料:
「進化しすぎた脳」 池谷裕二
網膜の神経活動分布の可視化に成功


以上
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by ma2mura | 2005-01-11 03:26

主語のない日本語

 「主語のない日本語」

 僕は、英語をしゃべれるない。しかし、普段から使っている日本語はそこそこしゃべれる。この日本語というものが、他の言語とどのように違うかについて興味がある。そこでよく言われるのが、主語がなくても話せるという特徴だ。

書き手の自由
 日本語は主語がなくても話たり書いたりすることができる曖昧な言語だと言われている。だが、主語を書いて話すことも可能なのも事実だ。話し手や書き手が、主語をつけるかつけないかを選択することができるということで、自由度が高い言語ともいえるだろう。機能的には、主語をつけなくてはいけない言語より、優れているということになるのではないだろうか。

読み手の不自由
 当たり前だが、聞き手や読み手には主語をつけて読むという自由が存在しない。話を聞いている時であれば、主語について相手に質問することができるが、書き物を読んでいる人はその自由は与えられていない。いろいろ推測しなければいけない。つまり、誤解される文章になる確率が、主語が絶対にある言語よりも高いということになる。

どこで省略できるか
 仲間内で話している分には、主語の省略はあっても暗黙的にわかることが多い。そして、日本は縦割りの社会であるため、仲間内以外での会話は少なくなっている。外部との会話する機会がある場合は、たいていが何を言っているのかわからないが、そのままにして終わることになるのが慣例になっているのではないだろうか。「何言ってるかわかんねぇ」と思って終わっている気がする。


 言語での束縛ができない以上、話す時のルールとしてローカルに設定して現状は回避しているように思える。多機能が良いのか、シンプルがいいのかは、難しいところだと思う。


参考資料:
金田一春彦「新版 日本語〈上〉」


以上
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by ma2mura | 2005-01-08 00:42 | 考えたこと

速聴と音楽

 「速聴と音楽」

 速聴についての本を読んだことがあった。友達がやって効果があったといっていたが、貧乏人の僕にはお金をかけることができない。

速聴
 株式会社 エス・エス・アイさんの 【 速聴によって頭の回転が驚くほど速くなる! 】
 速聴でぐぐったら、トップに出てきた。こんな感じ。
 簡単に説明すると、聞いているだけで頭がよくなるという話だ。2倍速になれるとそのペースで本を読むことができるようになるらしい。また、人の話を聞くのもゆっくりに聞こえるために、ほかのことを考えながら聞くことができるので、質問とかをしやすいという。普段のものを考えるスピードも同様にあがるらしい。

テレビ
 テレビを倍速で聞いていることもある(過去の記事:2倍速でテレビを見る)。倍速でテレビや音声を聞くフリーのツールはちょこちょこあるようだ。興味がある人は、それで効果があがったら本当の速聴のツールを購入するのもいいだろう。でも、フリーのツールで十分のような気もするが、きっと何かが違うのだろう。

音楽
 テレビを倍速で聞いていたら、音楽がかなりの速さで聞こえてきた。歌詞で何を歌っているのか聞き取ることができなかった。ちょっと考えてみると、歌にもよるが普通に話しているよりも早くしゃべっているので聞き取れなかったのかなと思った。つまり、テンポの速い曲の歌詞をよく聴いていると、もしかして速聴の効果があるのかな?と思った。しかも、一緒に歌うともっと効果があがりそう。

リラックス
 音楽はリラックス効果があり、ストレスを解消してくれる。ゆらぎやアルファ波がでたりするんじゃないかな。そのような状態で頭を動かすと効率よく動くのは間違いないだろう。この状態での速聴は効果がもっとあがるのかな?


 音楽は人生を楽しくする。


以上
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by ma2mura | 2005-01-07 17:54

オンラインゲームの中のバーチャルドラッグ

 「オンラインゲームの中のバーチャルドラッグ」

Wired News - オンラインゲーム世界に浸透する「バーチャル・ドラッグ」 - : Hotwired

 僕は、オンラインゲームには手を出していない。なんとなくエンドレスっぽいし、癖になりそうなので避けている。この記事を読んで、オンラインの世界が段々と現実の社会との違いがなくなりつつあるように感じた。僕は、オンラインゲームはまだやったことがない。

バーチャルドラッグ
 ゲームにより違いがあるようだが、基本的には一時的に強くなるがそれには副作用があるというもののようだ。そして、その副作用はゲーム内での死が与えられるようなのだ。生と死の概念すら現実のものと近い関係になりつつあるように思える。

中毒性
 中学生時代に、PCでゲームをよくやっていた。RPGを好んでやっていたが、経験値稼ぎが大嫌いだったため、データをいじって経験値を増やしていた。一度データをいじることを覚えてしまうとやめられないのだ。しかし、当時のゲームは今のゲームのように紙芝居的要素が少なく、ゲームがあっという間に終わってしまう。だが、やめられなかった。それで、ゲームをすることをやめてしまった。

人が作るものは人をあらわしている
 オンラインゲームは、人の特性を忠実に表し始めている。PSのゲーム等は操作に限定はあるのがかなり現実的になってきているように思える。アナログの世界ではなく、デジタルの世界に現実社会が映し出される。世の中を知るには、デジタルの世界を知ることが一つの解になる日が来るのかもしれない。その時に、ゲーム会社の商品はこういった統計情報になる日になる可能性が高いだろう。


 自分の都合の良い空間ほど長続きしない。


以上
 
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by ma2mura | 2005-01-06 17:07 | ITについて

問題予防能力

 「問題予防能力」

 問題は起こる前に、予防あるいは回避する能力。世の中を平和に過ごすことができる能力と言えると思う。

問題が起こりそうなことを予期
 何をすれば、問題が発生するのかを理解していると予期することができる。問題を知る方法は、経験をつむことが一番確実な方法だといえるが本を読むことでも知ることができる。歴史を勉強することが、一つの勉強だともいえる。

知識の活用
 知識と経験は違うとよく言われるが、知識を経験につなげることが一つの才能だと思う。知識では知っていても、それが実際の場面で使えるかはかなり難しい問題だ。本という他人の経験を自分のものにすることができれば、自分の経験にして生かすことができるだろう。また、知識として知っていても失敗を経験してから、知識が生かされることもある。知識は、あって損をすることは少ないと思う。

弱くなる
 問題が発生しないので、無難に時間が過ぎていく。チームのリーダーが問題予防能力が高いと、問題がなかなか発生しないので、チームにいる人は成長しない危険性が考えられる。平和になると、緊張感が欠如し始める傾向が出てくるだろう。問題を予防して避けるだけでは、人を率いていくことはできない。

評価されない
 多くの人は、問題解決の能力が高いと評価する。それはそれで必要な能力だとは思うが、より評価されるべきなのは、問題予防能力なのだ。問題が発生しなく、効率的に物事を処理することができるからだ。「あいつはやってることは楽でいいよなぁ」とか「あいつの仕事は簡単だ」とか「運がいいな」と思われてしまうのだ。評価されたいのであれば、実はある程度問題を予期し、それに対して最初から対処できる手段を講じておくと、効率は悪いが評価は高くなるのだ。予防してしまうと、かわいげがないのだ。


 この能力は、同じくこの能力が高い人にしか評価することができい可能性が高い。運は引き寄せるものなのかもしれない。


以上
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by ma2mura | 2005-01-05 02:09

伝言ゲーム

 「伝言ゲーム」

 噂は、伝言ゲームをしているが如くに変容していく。そのことを知っている人は多いはずなのに、それにだまされてしまう。それは何故なのだろうか。伝言ゲームでミスが起こっていることを知らずに、右往左往してしまう人達が多いと思う。

伝言ゲーム
 人から人への話が伝わっていくと、話に尾ひれがつく事が多い。これは、話す時に言いたい事しか人は言わないからだと思う。あるいは、話す人が重要視する内容、あるいは聞き手に聞いてもらうために印象的な内容しか話さないため、途中で間違った印象に変わるのだと思う。伝言ゲームの途中に、悪意のある人がいれば事実とは異なることになる確率は跳ね上がるだろう。

マスコミ
 マスコミが一番これにあてはまるだろう。聞き手に注目してほしい内容だけを伝えるのだ。全部が全部悪いわけではないと思うが、この論理がどうしても入ってくることは否めないし、聞き手はそういうことを承知で聞く必要があると思う。これは、普通に噂話を聞くときにも同様なのだと思う。

HPによる情報の公開
 情報源が重要。最近の賢い芸能人は、記者会見などを開かずに、自分のHPから情報発信をする。これはかなり賢いやり方だと思う。発信者も、その情報を聞きたい人も正確な情報を得ることができると言う事だ。途中にマスコミが入ってしまうとどうしても編集されてしまい、情報の発信者の言いたいことが伝わらないことが多いからだ。

情報ソース
 情報の発信源から、直接情報を聞き出すことがまずあると思う。噂で話を聞いたときは、話ている人はどこから話を聞いたのかが重要なのだ。情報ソースからその情報の信頼性を考え判断する必要がある。できる限り大元の情報ソースから情報を仕入れてほしい。そして、情報の発信者も人に頼ることはせずに、自ら情報を発信してほしい。


 ITは、この伝言ゲームミスをなくすために効果的な道具になるだろう。情報の発信と受信が容易なためだ。この利点を大いに利用してほしいものだ。


以上
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by ma2mura | 2005-01-04 22:12 | 考えたこと

曖昧な考え方

 「曖昧な考え方」

 日本人は欠点として曖昧な点があげられる。しかし、曖昧にすることがそんなに欠点ばかりなのだろうか。最大の短所は、最大の長所と考えると曖昧だという短所も長所に変わると考えられる。

曖昧なわけ
 明文化してしまうと、日本人の特性として皮肉か嫉妬からかわからないが言葉尻をとって反発する傾向があると思う。ひっこみ思案なためか、反発は正面きって行われることが少ない。徒党を組み少しばかり強引な方法をとることが多いだろう。このため、きちんと言わないで曖昧にして物事を進める方が効率的なのだ。そして、極めつけは少しばかり悪い人がいるかもしれないが、基本的には性善説がなりたつので、それでも問題は起こらないのだ。

概念化
 物事を曖昧にするということは、文字や言葉にしない、つまり明文化しないということだと思う。明文化しないということは、概念だけで捉えて行動するということになる。明文化された定義に、囚われない考え方ができるということではないだろうか。

自由な発想
 何も定義できていないに等しいので、自由に発想できるのだ。日ごろから、何事においても曖昧にしているため、子供のように考えることができるのではないだろうか。ちょっとした便利な概念を与えると、独創性の高いものを作り出すのではないだろうか。

すべてのことを明文化することはできない
 言語の制約などにより、すべての事柄を明文化することはできない。しかし、よりよい文章を作ろうと常に努力したのが西欧の考え方なのではないだろうか。それとは逆に方法、つまりできないことはしないと潔く切り捨てたのが、日本の曖昧な文化なのではないだろうか。どちらも一つの解であり、一長一短が伺える。ただ、長期にわたって存続する可能性が高いのは、明文化された方が利はあるだろう。


 刹那に生きる、日本人の魂なのかもしれない。


以上
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by ma2mura | 2005-01-03 22:25 | 考えたこと



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