ぶきっちょなんでも分解屋さん

スキー&スノーボード2004-2005

カテゴリ:考えたこと( 101 )

転ばなかった子供

 「転ばなかった子供」


 いつの頃からか転んでも泣かなくなった。いつの頃からか転ぶと痛いというより、恥ずかしいと思うようになった。

痛いから泣く
 転ぶと神経を通り強烈な電流が伝わる。その強烈な電流は、脳に体の痛みとして刺激を行う。痛みに慣れていないと、脳はストレスをためそれを解消するために涙が流れ、大きな声をあげる。それが泣くという行為ではないだろうか。パブロフ犬と同様に、電気刺激で体にコントロールされているのが、動物の性なのかもしれない。

痛みを知らないで育つ子供
 電気刺激により体から痛みによるコントロールがなされなかった子供はどのような大人になるのだろうか。知識としての痛みを知っているのかもしれないが、体験としては知らないということになる。だとすれば、痛みは強烈だという知識があり、その未体験の痛みというものに恐怖するのではないだろうか。それを避けるために、過敏になり異常な程の回避行動をとるように思う。

現代人
 ヒッキーやオタク等のように内向きな傷つかない世界に逃避するのか、自分を傷つける人を攻撃するいわゆるすぐキレる人のようになるのではないだろうか。それは恐怖からの防御か攻撃かということ。痛みをあじわいそれを乗り越えれば、なんの恐怖も存在していないことに気がつくことが出来るはずなのに、それを避けることができるがために、恐怖が恐怖を呼ぶのだろう。

舐めておけば直る
 傷は異物を水で流し、ばい菌が付着しないようにしておくと一番治りが早いらしい。消毒をするとばい菌はもちろん除外するが、傷を治す細胞の活動まで妨害してしまうのだそうだ。消毒などは、余計なお世話で治療の妨げになっているということだ。普通にしていることが、一番だと言うことの一例だと思う。


 今の世の中は情報が氾濫していると言われているが、本当に知らなければいけないことは昔の迷信のように扱われ共有されていないように思う。


以上
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by ma2mura | 2005-07-30 01:10 | 考えたこと

いたずらに嫌う

 「いたずらに嫌う」


 どこにいても嫌な人はいる。それをいたずらに嫌うのはどうかと思う。嫌いに思っている人は、相手も自分のことを嫌っていることが多い。

嫌いな人
 嫌う理由は、自分の言われては困るようなことを言う人や、自分の言うことを全く聞いてくれない人が多いように思う。言い方を変えれば、自分に害が出てくる可能性が高い人を嫌うように思う。えてしてそういうことを言える人間は、自分とどこかしら同じところを共有しているか、自分と親しい人に共有しているからだと思う。

嫌う行為
 自分の害を与える可能性がある人を、その人の周りから逃げ出したり、攻撃をして自分の周りから遠ざけたりする行為を、嫌うと言うのだと思う。それは弱い自分を守るために必要な行為だとも言えるかもしれない。そのため大人になり力を手に入れれば入れるほど、嫌うという行為を簡単に成すことができる。自分が言われては困ることは、自分の弱いところで自分が認めたくないところではないだろうか。だから、年を取ると弱くなるように思う。

いたずらに嫌う
 仕事でも一緒に生活するにおいても一緒に何かをする上で、ただいたずらに嫌うのは自分を守ること以外の意味がない。足を引っ張り、嫌うとい意味だけしかなく何も生み出すことはしないのだ。とても自分勝手な行為のように思う。何かを成さねばいけないときには、自分を守ることしかできないのでは無理で、強くならなくてはいけない。


 賢人は自分を嫌う人ほど大事にするという。そこまでマゾにならなくても良いと思うが、理性を取り戻して行動して欲しい。


以上
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by ma2mura | 2005-07-04 22:59 | 考えたこと

あらぬ疑い

 「あらぬ疑い」


 ちょっとしたもめごとで、警察のご厄介になることのない事件は素人の捜査が行われ、罪の断定が行われてしまう。

獅子舞
 街の行事で小学生が獅子舞をする風習があった。皆で交互に適当な順で獅子の中に入って舞うのだけど、当日獅子が壊れてしまったのだ。僕の次に獅子を使った上級生がその時に壊れていたと証言してしまい、犯人は僕ということにされてしまったのだ。僕が使ったときには壊れていなかったという僕の証言は全く聞き入れてもらえなかった。

素人の捜査
 ドラマに出てくるような刑事は関係者への聞き込みをまず行ってから、証拠を集めて、それから裁判が始まる。しかし、素人の捜査にはそんな手順があることは稀で、ほぼ勝手な決めつけによって犯人を特定し、事情なども聞きもしないで犯人として断定されてしまうことが多いように思う。そう、よくある根も葉もない噂で全てが決まってしまうのだ。

日頃の行い
 噂で決まってしまうとするならば、犯人かどうかはさせておいて、犯人にされるかどうかは全ては、周りがそう思うかどうかにつきるように思う。つまり、日頃から優等生をしていたり世話好きで良い人のように思われている人であるならば、犯人だとしても周りが決して犯人にさせないのではないだろうか。小学校の時の僕は、上級生を上級生だと認識いないところがあったように思う。これを期に、日頃の行いを改めるようになった。


 普段警察にご厄介になることはまずない。だが、小さな事件は多々起きる。その時に信用のない人がまず犯人にされてしまう。良いことをしていれば、小さな良いことがあるという教訓を小学生の僕は学んだ。


以上
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by ma2mura | 2005-06-25 14:17 | 考えたこと

全ては自分のため

 「全ては自分のため」


 エゴの塊のような題名かもしれないがこれが人の全てだと思うし、見方によってはそれで良いように思う。

自分のことだけ
 自分が幸せになるには自分のことだけを考えていては幸せになることができない。自分だけでなく周りの人も幸せならなくては、個人の幸せもやってこない。悪いことをした噂はすぐに広がり周りから、一度そういう風に見られてしまうとすぐには元に戻ることはできない。本人がそれでも良ければそれで良いと思うかもしれないが自分の周りにいる人は辛くなることになるだろう。自分の友達に悪い噂が漂っているとあまり良い気分にはならない。

他人を幸せに
 「ありがとう」と言われるとなんだか幸せになるように、他の人が幸せになってくれると自分も幸せになるということは多々ある。自分が幸せになるのに一番簡単な方法は他人を幸せにすることかもしれない。多くの人が喜んでくれれば自分はかなり幸せになることができるだろう。

大きなお世話
 他人を幸せにしようと親切心で世話をしたとしても、その人たちが実際に幸せになってくれるかは難しい問題である。他人の気持ちを理解せずして他人を幸せにすることは困難で大きなお世話になってしまう可能性がある。そしてそういう時に利己的になってしまうと「自分は親切にしているのになぜ感謝されないのか」と思い始めてしまう。見返りを当然のように思っていると、それは親切ではなくなってしまうのかもしれない。

自分も幸せに
 他人のために自分をかなり犠牲にしてしまっては他人は本当の意味で幸せにはなれない。他人を幸せにするために自分の命を犠牲にしたりするのは実に利己的な考え方だと思う。自分の命を犠牲にすることで自分は満足することができるかもしれないが、助けられた他人はたまったものではない。一生そのことを背負って生きていくことになる。他人のためにも自分のためにも自分がまず幸せにならなくてはならない。


 周りを蔑ろにしても自分だけというのは悲しい幸せしか得ることがないように思う。自分を蔑ろにしても同様である。ただの正論かもしれないがあながち間違っているとも言えないと思う。


以上
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by ma2mura | 2005-06-22 15:43 | 考えたこと

戦争が起きたら参加する?

 「戦争が起きたら参加する?」


 世界価値観調査なるものがあるらしい。国際的調査研究プロジェクトなのだそうだ。そこで5年に一度調査してランキングをつけているらしい。

日本は最下位
 結論から言いますと日本は最下位の59位で15.6%の人が「参加する」と答えているらしい。トップはトルコで94.7%の人が「参加する」と答えている。トップは最近戦争やクーデターがあった国のようだ。因みに一個上の58位はスペインで「参加する」と答えた人は37.4%ということで、日本はダントツに最下位ということがわかるだろう。

平和教育の成功
 この結果からわかることは平和教育が成功したと考えて良いのかもしれない。賛否両論あるかもしれないが、自国に攻め込まれても戦争には参加すると明言している人がいないのだ。こんな国民が自らしかける戦争する可能性は参加すると答えている国よりは、かなり低いことになるだろう。

特異な国
 この特異な結果をどう受け止めるのかは難しい。軟弱だと捉えるのは簡単だが、それが平和ということなのかもしれない。戦う力がなければ戦争になんてなることはないのだ。しかし、戦争が起きなければ平和なのかといえばそうでもない気がする。


 日本は世界に先駆けて戦争をしない国というモデルケースをやっているように思う。その結果がどのようになるのかは研究対象としてはおもしろいと思う。


以上
 
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by ma2mura | 2005-06-10 03:42 | 考えたこと

ナビのない車旅行

 「ナビのない車旅行」


 ここしばらく乗る車はたいていがナビがついていた。ナビのない車で長距離の旅にでることになった。特に時間に焦る必要もないので高速は使わないことにした。

ナビ
 最近のナビは高機能でとても賢い。ほとんど間違えることもないし、運転のミスにより道を間違えたとしても高速に再検索を行ってくれる。気楽に目的地に行くのには必需品であるといえる。しかし、気楽にいけてしまうが故に、全く調べることをしなく自分で道を覚えるということをしなくなってしまう。こうなると、道路にレールが引かれてしまっているのと同じで、電車と同じになってしまう。違いは個室というだけ?

事前準備
 ナビがあれば、事前に設定をする程度で事前準備は5分程度あればたりる。しかし、ナビがないとなると前の日に時間をかけて道路をチェックし道路にある看板にありそうな地名を暗記しなくては運転していて不安に駆られることになる。事前準備がないと自分の道が正しいのかすら不安になってしまい、正しい道を走っていたとしてもつい戻ってしまったりすることになる。

緊張感
 運転中に自分の道が正しいとする根拠を常に探していなくてはいけない。そして、次の分岐点を予測したり看板を見て情報を集める等して次に曲がる時に不安にならないように常に考えておかなくてはならない。そして、自分の選んだ道が正しいと信じて進まなくてはいけない忍耐力が必要になる。ちょっと自信がなくなり道にそれてしまうと、ロスタイムが増えてしまう。

ドライブ
 運転するという楽しみの場合はナビがない方が楽しいと僕は思う。目的地で遊ぶことが目的で、運転を楽しむということが目的ではないのであれば、ナビがあった方が簡単に目的を達成することができる。どちらも楽しめるに越したことはない。


 自分で道を選びたい人は、そうではない人に嫌がられてしまうかもしれない。

以上
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by ma2mura | 2005-06-03 20:35 | 考えたこと

ちからの保存

 「ちからの保存」


 多くの力は、蓄積して保存することができる。保存することの目的は、保存した力を時間が経過した後に再度使用できるようにすることだ。

保存
 ちからの保存することができるようになるということは、ムラのあるちからの発生を安定させることができるということだと思う。ちからが余っている時にはそのちからを保存し、足りない時は保存したちからを利用することができるようになるからだ。例えば、狩猟生活をおくっていた人間に農耕という技術を利用することにより食料を保存することができるようになり、安定した生活を送れるようになった。

多くのちから
 多くのちからは、何らかの形に変えたりすることで保存が可能になる。機械的なことでいえば、電力に変えておけばかなりのちからを保存することができる。働くということにおいては、お金という形に変換されて保存することができる。形を変えて保存されたちからは、他のことにも使うことができることが多いだろう。

人のちからの保存
 上にも書いたが、働くことによって人のちからをお金に変換して保存することができる。だが、人のちからはもっと別な形での保存が可能だと思う。自分に余裕がある時に、人への親切を行っておくのも一つの方法であるように思う。義理を重んじる日本人の習性から考えて、かなりの保存が可能になるように思う。

人々には親切にしよう
 「困った時はお互い様」という言葉があるとおりに、生活を安定させるためにも周りの人々への親切はすべきであることをむかしの人は知っていたのだと思う。少しでも自分に余裕があるのであれば他の人に親切にしておく方がよい。度が過ぎなければ、親切にした方が仲良くなれて楽しいし感謝もされる。

時間をかけた保存
 ゆっくり長い年月をかけて保存されたちからは大きな力を持つ。それは、短期的には保存できる量ではなくなっていることが多いからだ。例えば、時間をかけて培った信頼ほど強力な力を持つものはない。それは数多くの人がその信頼を信じているからだ。継続とは恐ろしい力を持っているように思う。


 ちからの保存の法則は奥が深そうだ。この法則を完全に理解することができれば…。

以上
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by ma2mura | 2005-06-01 23:14 | 考えたこと

努力

 「努力」


 努力は面倒だし「そんなの意味ない」みたいに批判されることも多い。しかし、努力できるというのは素晴らしい才能だと思う。

努力しないと
 才能のある人は人よりも努力しないでもできてしまう。努力しないで人から評価されてしまっても、実感がわかない。労せず手に入れた評価は、達成感や充実感をあまり得ることがあまりできない。その状態はとてもつまらない状態ということになる。

根性
 いつも努力せず人から評価を得ていると、努力の仕方を知らない人になってしまう。人は多くの場合苦手な分野がある。努力の必要ない人は、普通の人よりも得意分野が広いだけでやはり苦手な分野が存在するはずだ。苦手な分野では普段努力を必要のない人も努力をしなくてはいけなくなるが、努力できず避けることになる。これが根性がないという状況なのだと思う。

自信
 達成感や充実感のある努力をすれば、それは自分への自信につながるように思う。努力のない評価は、自分自身でそのことを納得していなく自信へにつながることは難しい。自信は自分が納得して初めてつくものだと思う。揺るぎない自信に満ちあふれた人は、心に余裕がありとても魅力的な人だと思う。

継続
 努力を継続すると多大な力を得ることができる。ウサギとカメの話ではないが、瞬発的な努力よりも継続的な努力の方が成果を得ることが多いと思う。大規模なことは、長期にわたって行わなくてはならず瞬発的な努力ではどうしようもないこと、長期計画を立て継続的に進める他ない。継続的に行われたことを覆すのは至難の業である。


 適度な努力は安心して生きるために必要なように思う。努力しないと自分の人生が何もない人生に見えてしまうかもしれない。


以上
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by ma2mura | 2005-05-30 13:42 | 考えたこと

言葉の作用

 「言葉の作用」


 良いことや悪いこと、どちらに関しても言葉にすることは有意義であると僕は信じている。

因果応報
 言葉についてもこの法則は成り立つように思う。良いことを言っていると良い言葉が返ってくるし、悪いことを言っていると悪い言葉が返ってくる。。だから、基本的には悪いことは言わない方が得策だと思うが「沈黙は金、雄弁は銀」である。

言葉は返ってくる
 普通に人と話してその人との関係がある程度密接であればたいていの言葉は話し相手の記憶に残ることになる。残った記憶は似たような場面に陥ると刺激されて思い出すことになるだろう。そして、その時の人の一番簡単な反応は同じ言葉を言うことだ。多くの場合に自分の発した言葉が、その人に返ってくることになる。

知識の共有
 自分の話した言葉は相手に記憶される。まるでレコーダーのように記憶されている。他の人よりも多くのことを知っている場合、多くのことを話しておくと良いと思う。忘れてしまった時や、視野が狭くなってしまって考えに及ばない時に、その言葉は返ってくる。知識は共有しておいて損はないように思う。同じ言葉でも違ったタイミングで使われることがある。それは学習価値があることだと思う。

相手の身になって話す
 相手の身になって話すのは、相手にとっても良いことだし実は自分にとっても良いことになる。同じ状況になると自分の言った言葉が返ってくるのであれば、自分が困ったときのために相手の身になって自分の言って欲しいことを言うと、それが返ってくるからだ。自分勝手なことを話していると、自分が同じ状況になった時に同じようなことが言われる。

言ったことは戻ってこない
 人の発した言葉は、二度と返ってこない。周りの人が無反応で聞いていなさそうでも意外と聞いていてそういうことほど良く覚えている。その言葉は人の心に残りたいていは潜在的に利用される。そういうのが積もり積もって「日頃の行い」とか「なんとなく」というものを構築するのだと思う。言った言葉戻ってこないので変なことはあんまり言わない方がいいのかもしれない。


 言葉は人類にとって偉大な発明だと思う。この発明も例外に漏れず良いようにも悪いようにも利用することができる。気をつけましょう。


以上
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by ma2mura | 2005-05-25 14:47 | 考えたこと

知恵の実

 「知恵の実」


 キリスト教にあまり詳しいわけではないが、キリスト教によれば人は「知恵の実」を食べてしまったがために楽園を追い出されてしまったらしい。現代にも楽園は残っているように思う。

楽園
 知らないでいることがそこを楽園としていたのではないだろうか。個人の行動範囲はかなり限られた範囲でしかない。その他で何が起きているか知る方法はマスメディアを利用した方法だ。メディアが平和だと嘘の情報を流していれば、それを信じてそこが平和の国だと信じてしまう。悪いことを見ないようにすればそこは楽園なのだ。

現代
 職を選ばなく浪費した生活を我慢すれば、食うことに困ることはまずない。昔から考えればここは楽園だ。この楽園を楽園でなくしている理由は何なのかと考えるとそれは、情報という知識であるように思う。誰かがずるをして大もうけしているという情報ですさんだという情報あったり、欲望を満たすための情報であったするように思う。

立ち去ってしまう
 知らないでいることが楽園にいることの条件だとすれば、知恵の実を食べた人はそこが楽園でないことを知った人であることになる。周りにいる人よりも知識があり、そこが楽園でないことを知った人は、その楽園と呼ばれている場所から立ち去るしか選択肢はない。楽園だと信じて疑わない人に、そこが楽園でないと説いても聞いてもらえるはずがない。そんなことを言う人は多くの場合追い出されてしまう。

食べてしまった人
 楽園でないことを知った時点である意味楽園から追い出されたことになるが、その場所に留まることになってしまった者は楽園の維持に労力を傾けることになってしまう。それは真実を知っているために楽園のためにしなければいけないこともわかってしまうからだ。それがとても不毛なことだとしても楽園と信じている人のために努力しなくてはいけなくなる。


 楽園の住人のままでいるのかどうか選択できるのは若いうちは選択できる。こう説明するとマトリクスを思い出してしまう。


以上
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by ma2mura | 2005-05-23 03:04 | 考えたこと



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